佐藤昭子 田中角栄を総理大臣にした女は秘書で愛人だった!娘 佐藤敦子の年齢や経歴wikiプロフィールや画像は?

佐藤昭とは?

佐藤昭さんは1928年、新潟県柏崎市に6人兄弟の末っ子として誕生しました。早くして身寄りを失くした昭さんは17歳の時に同郷の男性と婚約しました。

 

佐藤昭子 学歴

・新潟県立柏崎高等女学校卒

・東京女子専門学校中退

 

佐藤昭子 秘書

・越山会を始めとする政治団体、関係事務所の統括責任者として活躍

・政経調査会を主宰

 

佐藤昭子と田中角栄 二人の出会いは?

佐藤昭子も田中角栄も同じ新潟出身で、二人は郷里の柏崎で出逢ったそうです。当時、田中角栄が27歳、佐藤昭子が17歳でした。

 

 

まだ27歳で建設会社の社長として東京にいたので、新潟での地盤が固まっておらず、弁論部だった昭の婚約者を頼ってやってきたのが始まりです。

 

 

昭の田中角栄に対する第一印象は年をごまかしているのか?と年齢の割に老けていると思うぐらいだったそうですが、一方の田中角栄はさらっていきたかったというぐらい一目惚れしたそうです。

 

 

当時の日本は愛人を持つことは男の甲斐性と考えられており、田中角栄には本妻がいました。

 

 

田中角栄はその時の選挙では落選しましたが、翌1947年第3回総選挙では当選を果たしました。

 

 

一方、昭も夫とともに東京に上京し電気工務店を開業しました。田中角栄が経営していた会社からの下請けがほとんどで、田中角栄も良く訪れていたと言います。

 

 

田中角栄と出会って5年が経ったころ、戦後のインフレのあおりを受け、電気工務店の経営が悪化し、倒産しました。夫婦の関係は冷え込み、深い亀裂が入りました。

 

 

結婚5年目、昭は離婚を決意しました。

 

 

代議士となっていた田中角栄は昭と夫の離婚の噂を聞き、その足で昭に会いにいったそうです。家を出るつもりですと語る昭に、田中角栄は自分の秘書にならないか?と打診しました。

 

 

そして、これからは自分が全責任を持つと言われ、それ以来、33年間もの間、田中角栄を公私ともに支えることになります。

 

 

では、佐藤昭はいかにして田中角栄の第一秘書にまで上り詰めたのでしょうか。

 

 

1952年12月1日、佐藤昭の初めての出勤日、机が準備されていました。この時はすでに二人は愛人関係になっていたそうです。

 

 

与えられた仕事は年賀状のあて名書きでした。1万枚の年賀状を渡され、一日1000枚書かないと間に合いません。試されていると感じた昭は2週間で1万枚の書き終えました。

 

 

田中角栄は「ご苦労様」というだけで、どんなに激務でも昭を褒めることは一度もなかったそうです。その代わりに次から次へと仕事を渡すようになったそうです。

 

 

そして、せっかちな田中角栄の「あそこへ電話をかけて」という曖昧な指示にも即座に対応することが出来るようになり、コンピューター付きブルドーザーと言われていた田中角栄から絶大な信頼を得た佐藤昭は「君ほどの利口な女ははじめてである」とまで評されるようになったと言います。

 

 

1953年、史上最強の後援会「越山会」が発足されました。会員数は最も多い時に最大9万人にまで達しました。この巨大組織の金庫番として100億円を動かしていたのが佐藤昭でした。

 

 

そして、佐藤昭は後に「越山会の女王」として政界に強い影響力を持つことになります。1957年、田中角栄が郵政大臣に就任したころ、佐藤昭は第一秘書になりました。

 

 

今まで4年かかっても何も進まなかったテレビ放送の免許問題を2日で解決し、民間放送の原型を完成させました。

 

 

口癖は「死ぬ思いをすれば何でも出来る」。法律を成立させるため六法全書を丸暗記するほど努力家でもあったと言われています。

 

 

佐藤昭子は秘書では出来ない仕事をしていました。仕事ぶりはまるで田中角栄の分身でした。政界をかけあがる田中角栄を見て、佐藤昭は田中角栄は変わってきたと感じていました。

 

 

畏敬の念すら感じていたそうです。総理大臣は二人の夢となっていました。

 

 

田中角栄を総理大臣にするため、田中角栄が嫌いな人ですら角栄に引き合わせ、有望な議員と田中角栄の窓口になったり、昭の女性関係の相談まで引き受けていました。

 

 

佐藤昭は自ら「女王」になろうとしてなったのではなく、周りに女王にされたと言っても過言ではありません。佐藤昭を通してでないと、田中角栄へは繋がりません。

 

 

物凄いスピードで出世していく田中角栄が総理大臣になることをすでに想定していた佐藤昭は、佐藤栄作政権下で総裁の任期を2年から3年に変更しようと提案したそうです。

 

 

総理への決定打となったのは1972年に発表した日本列島改造論でした。政治家では異例の90万部を超えるベストセラーとなりました。

 

 

日本列島改造論 (1972年)

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書かれているのは今実現している未来でした。計一万キロの高速道路計画や9千キロ以上の新幹線網の計画など田中角栄の理想に期待をかけました。

 

 

1972年7月5日、ついに二人が待ちわびた瞬間が訪れました。 第64代内閣総理大臣に就任。この日、一通の手紙を送っていました。それは田中角栄から佐藤昭さんへのラブレターでした。

 

 

昭さんが亡くなった後、その手紙が寝室の金庫の中で発見され、娘であるあつ子さんが見つけたそうです。

 

 

田中角栄を陰で支え、表へは出ず黒子的な存在でしたが、人事もお金も握り、周囲からの信頼も厚く、田中角栄からは「越山会の女王」と認められていました。

 

 

1957年7月、佐藤昭は長女、あつ子を出産しました。佐藤昭は田中角栄に対して子供の認知を求めませんでした。

 

 

佐藤昭さんと田中角栄の娘である佐藤あつ子さんは田中角栄に対してどのような思いを抱いていたのでしょうか。